イエスの謙虚 from Mustard Seed Osaka on Vimeo.

スモールグループの勉強:
 ヨハネ13:1~5
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」     
イエスの栄光の崇高さと謙遜の深さの差が、イエスの私たちへの愛の大きさを表している。

私たちはクリスチャンとして、イエスが私たちのことを愛しているということを知っていますが、時折私たちは、彼のその愛に目を向けることを忘れ、他の方法で愛と受容を求めます。それらは偶像です。あなたはどのような偶像に愛と満足を追い求めましたか?

あなたの祈りリストの中で、ノンクリスチャンの友達や家族を選びましょう。彼らがイエスの愛を知り、信じることで、彼らの人生はどのように変わり、救われるでしょうか?

ヨハネ13:10-11
「イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。」    
この聖句はユダのことに触れています。ユダは3年間イエスの弟子の1人であり、イエスによって彼の足が洗われましたが、彼はきよくはありませんでした。この聖句は、単なる表面上の宗教的犠牲について、私たちにどのような警告を与えていますか?

ヨハネ13:34-35
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」    
私たちが、イエスが私たちを愛されたように他の人を愛することを追い求めているなら、これら3つのポイントに直面します。

(1) 誰が愛するべきか?私たち全員が。クリスチャンコミュニティに社会的階級は存在しない。   (2) 誰を愛するべきか?全ての人を。私たちは他の人を無条件で愛する。   (3) どのように愛するべきか?イエスのように。私たちは謙遜さをもって他の人に仕える。    
これら3つのうちどれがあなたにとって最も挑戦となりますか?それは何故ですか?
これら3つのうちどれが最もノンクリスチャンの社会と異なっていますか?